イスラム法学者とアラビストが映画『ジャーニー』を観に行った…【中田考のレンタルおじさん】
中田考「レンタルおじさん、始めました」連載第2回
中田:もちろん「アッラー」という名の神は信じられており、マッカのカアバ神殿はアラブのパンテオン(万神殿)で、アッラーはその主神ではありましたが、カアバには360柱の神々の偶像が祀られていました。預言者ムハンマドが620年にメッカを征服した時に、その360体の偶像を破壊し、カアバ神殿を多神教の穢れから浄めたのです。だからアッラーという名の神はいたことはいたのですが多神教の一つの神でしかなかった。だからイスラームやユダヤ・キリスト教のような一神教とは全く違う偶然崇拝の多神教でしかなかったのです。
それに当時のアラブは部族社会だからあんな感じでメッカの民として団結するなんてことはありません。士気を高めるなら、それぞれの部族の名前を個別呼んで、「A部族の者たちよ、あなた方の祖先Aの勲(いさお)しにかけて戦え。B部族の者たちよ、あなた方の祖先Bの勲しにかけて戦え。C部族の者たちよ、あなた方の祖先Cの勲しにかけて戦え…」と激を飛ばさなければなりません。日本の今の核家族みたいな、ああいう家族観もない。日本のように女性が結婚すると姓が変わって夫の家に入る、という考えがそもそもない。嫁は結婚してもあくまでも父親の部族の一員なのです。
それに盗賊が汚れた罪人なんていう価値観もないから本当に変だよね。イスラーム以前のアラブ時代を「ジャーヒリーヤ(無明時代)」と呼びますが、ジャーヒリーヤには「サアーリーク詩」という一分野があります。「サアーリーク」とはアラブの部族から外れ砂漠で略奪を生業とする強盗団です。彼らは苛酷な砂漠の厳しい生と勇猛な戦いの日々を雄々しい詩に歌い上げ、中世日本のまつろわぬ民「悪党」のように、悪のヒーローでもありました。そんなサアーリーク詩人としてはウルワ・ブン・アルワルドが有名です。
またノアの方舟とか旧約聖書の話、円柱都市イラムのようなクルアーンの話が出てくるシーンが幾つかありましたが、当時のアラブ人はそんなものは「昔の人々の作り話(アサーティール・アウワリーン)」だと言って嘲笑っていたのです。それを聞いてメッカの人たちが感動する、というようなそんな話では全然ないんです。多分欧米人向けを意識して作ったからでしょう。モーセの話とかも我々はユダヤ人と仲間だっていうメッセージなんじゃないかな
依頼者:可哀想なヘブライ人って感じで出てきましたよね。ヘブライ人かわいそうっていう意識はアラブにあるんですか?
中田:ないない全然。クルアーンの中でファラオは悪者だから、その意味ではかわいそうだった、というのは確かです。しかしせっかく暴虐なファラオの奴隷だったのを救い出してもらったのに、モーセの言うことを聞かずに逆らって文句ばっかり言っている、聞き分けのない連中だ、という感じで、全然かわいそうに書かれていませんね。
この作品は2019年に製作発表されています。つまり、企画はトランプ政権時代ということです。実はトランプは、ユダヤ人の娘婿クシュナーを大統領上級顧問に任命し、クシュナーとUAE(アラブ首長国)のムハンマド・ブン・ザイド皇太子を通じて、イスラエルとUAE、バハレーン、スーダン、モロッコの国交を樹立させましたが、クシュナーとUAEはサウジのMbS皇太子もそれに巻き込もうとしていたのです。結局、MbSの父親のサルマーン国王の反対によってサウジアラビアはイスラエルと国交を結びませんでしたが、MbSはトランプ時代にイスラエルに迎合する政策を次々と打ち出しました。この映画に不自然な旧約聖書の物語を無理やりにたくさん詰め込んでいるのも、その一環で、ムスリムとユダヤ人、サウジアラビアとイスラエルのお友達アピールだと思えば腑に落ちます。
ともかくアラブ・イスラーム研究者としても突っ込みどころ満載の映画でしたね。